2020.6.5

幼稚園のお迎え後、まだまだ遊び足りない次女と年中さんの2人で駐車場のある森で落ち葉遊び。
落ち葉を集めてフカフカの部屋にしたり、傘を組み合わせてテントを作ったり、休校中の小学生の2人も楽しそうに遊びの輪の中心にいる。


一緒に残ったのは長女の時から仲良くしてくれるさやちゃん、以前からよく遊びに行っていたお店を夫婦で営むKちゃん。


Kちゃんとはお店で以前から会ったり、共通の知り合いが何人かいたりはするものの、じっくりと話をしたことはなかった。
一度だけ、幼稚園が存続できるかできないか揺れ動いていた去年の冬、何度かあった幼稚園から保護者への説明会でついに幼稚園存続が決まった日、私とさやちゃんが駐車場で喜びと安堵の涙を流していたところにKちゃんが通り、私たちの涙を見て「感情って不思議だね、どこからくるんだろうね」と言いながら一緒に泣いたことがあった。


Kちゃんは少し不思議な感性の持ち主だ。
でも私はそれを心地よいと直感で知っていた。


落ち葉のベッドで寝転ぶ子供達を見ながら、大人3人も落ち葉の上に座っていろんなことを話した。


私とKちゃんの繋がりのある友人の多くが以前私や夫がやっていた演劇関係の子が多いので、話の流れは自然とその劇団の話になった。
「Hプロにいたんでしょ?すごいね」
そう言われると私は胸の奥がギュウッとする。
全然すごくないんだよ。ただ飛び込んだだけで場違いだった。
いつも苦しかった。劇団のみんなともちっとも仲良くなれなかったし何も残せなかった。
憧れと勢いで入った世界だったけど、みんなプロ意識も向上心も高く、センスも良く、何もできない自分ばかりが目に余る場所だった。
でも、夫に出会った。
それは運命だった。
その出会いがあったからこそ、私はあの場所に飛び込んだことを悔いることはない。
何も成し遂げてはいないということには変わりはないのだけれど。


夫と夫婦になったことで私はようやく居場所を見つけたけれど、パフォーマーでありアート作家でもある夫の隣にいると知り合う人たちはアーティストやミュージシャンが多く、必然的に私のことも作家か何かかと思う人が多かった。
初対面で「あなたは何をしている人?」と聞かれることが増えていき、「何もしていません」と答える自分がとても小さくつまらない存在だと落ち込むこともあった。


子供を産み、「あなたは何をしている人?」という質問をされなくなっていった。
子育て世代の新しい人間関係の中に飛び込めば、母親として存在し、それぞれのバックボーンは関係なかった。夫が誰であっても関係するのは私一人との関係だ。


私は何かに秀でる必要も、何者でもなくなった。
それは開放感でもあり、喪失感でもあった。


私は夫の隣で「何もしていません。つまらない人間です」と言う必要がなくなった代わりに、夫の面白いこと、私もワクワクするようなイベントを周りの人に発信することもできなくなっていた。


私は何者でもないけれど、夫の活動を隣で一緒に楽しみたいのだという自分の本音が聞こえた。


何者かになりたかった。
でもなれなかった。
私は普通の人だ。誰かに期待されることも自分で自分に期待することもしたくはない。
でもそれは物足りないと思っている。
やはり何かをしたいと思っている。


そんなことをKちゃんとさやちゃんと話していた。
2人はまっすぐな綺麗な瞳で私の話を聞いてくれていた。
分かるよ、何かしていないといけないっていう気持ち分かるよ。
やりたかった場所に行けたのに自分の居場所ではなくて居心地が悪くて悔しくて苦しい気持ち分かるよ。


Kちゃんも昔、劇団に所属していた経験があるのだそうだ。
そこで周りに期待されていた時期もあったけれど、自分を表現することが最後までどうしてもできなくて苦しくてやめてしまったという。


自分を解放できれば、自分のやりたいようにもっと自由になれたらどんなにいいだろうと思いながら頑張ったけどできなかった経験は、あまり共感できる人がいなかったからそんな話をしてくれて嬉しかった。


そしてまた私は次女の歌を思い出していた。


ひかりはつづく ゆめひとつ
ひかりのそこに こころをあげないで
ひかりであそぶのは やめだよ
こころのそこであそぼう


ずっとこの「ひかり」が何なのか分からなかった。
何かの比喩なのか?
そんな難しい哲学を歌っているのか?


でももっとシンプルなことなんじゃないかと思った。


「ひかり」は照らされている今自分のいる目の前の世界。
時にはキラキラと魅了し刺激的に楽しませてくれるけれど、掴めない空虚なもの。
時にはやらなくてはならない厳しい現実として目の前に立ちふさがることもある。


その「ひかり」に翻弄されず、自分の思う「こころ」の底で遊ぼう。
そう言っているのではないか?

 

そんな話をしていた瞬間、私の車の下からパーーーッンと大きな弾けるような音がした。

 

何事かと思って近づくと私の車のタイヤの下で瓶が破裂していたようだった。

じわりじわりとタイヤの重みで瓶に負荷がかかり、ついに弾けたという感じだった。

 

なんだかそれが、私やKちゃんさやちゃん、みんなの積み重なった思いが弾けた感覚とリンクして、私は夢を見ているような美しさをぼんやりと感じていた。

 

それは今の私の気持ちを瓶が身をもって体現してくれたような錯覚だった。