2020.12.24

自分の頭がもっと賢かったら、とよく思う。

もっと賢かったらもっと感情や状況に適切な言葉を見つけられるし、人の言動の矛盾点にも瞬時に気づくことができるし、その上での後味の悪くない対応を取ることができるのだろうと。

 

逆を言えば、今の私は後から「あの時こうしていれば」「あの時ああ言っておけば」という後味の悪いことが日常であり、自分の判断の鈍さに絶望するのも日常だ。

 

それでも自分の言葉を諦めきれないところもある。

だからこうやってブログを書いたり歌を作っているのだと思う。

歌を歌いたい、そう思ったらどんどん歌ができる。

それくらい、消化できない思いや言葉が今の自分の中にはあるという反面、この状態は永遠に続くものではないということも俯瞰的に分かっている。

現実は歌にしなければ消化できないほど嫌なことも楽しいことも相変わらず同じようにあるけれど、こんな今でしか私は歌を作ることはできないのかもしれない。

 

この前、友人と話していたら、いつものように話していたのに言葉が出てこなくなって、「ああ、あの歌を聴いてもらったら伝えられるのに」と思った瞬間があった。

そんな風に自分の言葉を自分の歌に代弁してもらおうと思った経験は初めてで、少しおかしかった。

 

自分の頭がもっと賢かったら、歌を作らずに会話で全てを語れただろうか。

それとも、もっと素敵な歌がたくさんたくさんできただろうか。

 

教養は大切だ、と身に沁みて思う。

すごく賢くなくてもいいけど、馬鹿には絶対なりたくない。

 

以前、自分一人では抱えきれない問題を相談をした時、

「マリちゃんは毎日ハッピーじゃないってこと?」

とある人から言われて、びっくりしすぎて返事ができなかった時があった。

「ハッピーだけじゃないよ」というのが精一杯だったような。

もっと何か別の言葉でその場を取り繕おうしたのか、自分でも記憶がないほど衝撃的だった。

 

自分の心を大事に、笑顔で、ネガティブな感情はポジティブに変換して、理想の自分、理想の社会を目指す。それがハッピーなことなのかな、とそう言ってきた彼女を見ていると思う。

 

でも決定的に私と彼女とは価値観が違う。

けれど賢くない私は、それを大人の対応で的確に説明できる言葉がなかった。

どうしようもない感情になった私は大人げなく「もういいよ」と最後に言って、彼女は「そうなんだ」と空を見上げて言って走って行った。

 

今日、イ・ランのエッセイを読んでいたら、この時の出来事を思い出すようなくだりがあって私は深く共感した。

 

”楽しい人生のイメージといったら、毎日笑顔で自然と踊り出してしまうような、そんなものじゃないと思う。むしろ、しかめっ面に近いとでも言おうか。

(中略)

何かを考えて、それを書いて、また考えて、行き詰まったら友人と話をして、また考えを整理して書く。この文章のタイトルを考えて挿絵はどうしようかと悩む。そうやってひたむきに一ページを作り上げた後の気分は「楽しい」”

 

(引用:悲しくてかっこいい人 / イ・ラン)

 

かっこいいなあ。

サラリと言葉にしてくれてる。

ほんとにそう。

私も考えることはやめたくないし、考えて出た言葉を吐き出す作業は続けていきたい。それが私の人生の楽しみでもあると思っている。

やっぱり文章には自由がある。

 

私は毎日、ある意味ではハッピーではない。

でも、幸せを感じない日もない。

 

子どもたちは元気だし、歌を歌えるほどには時間もあるし、「元気にしてるかな?」とか「こんな曲ができたよ」とメールを送りたくなる友人がいる。

 

じゅうぶんだ。

私のハッピーの形は誰にも決められたくない。