2020.12.25
″なんでも好き嫌いせずに残さず食べなさい″
という子どもの頃から教え込まれた言葉が人間関係にも通じているんだろうなぁとふと思った。
「どれも栄養がたっぷりなんだからちゃんと食べなさい。」
という教えは、
「みんないいところがあるんだから誰とでも仲良くしなさい。」
という考えに置き換えられる。
いつしかその教えは食べ物を残すこと自体に罪悪感を伴うようになって、人間関係の中で誰かの意見を無視することに後ろめたさを感じることになって、本当は好きじゃないのに我慢して咀嚼して飲み込まなくてはいけなくなって、嫌いな物も食べられるようになれば褒められて、食べられなかったものを食べられたら自分でもよい自分になれた気がしてまた無理して、何かを残したままの状態が気持ち悪くて、自分の好き嫌いの判断を待つ暇もなく目をつぶって全部を一気に口に入れて最初からなかったことにしていくのかな、、、とか。
そんなことをこの前、子どもたちと入ったレストランでオムライスを食べながらふと思った。
そのオムライスはとても美味しかったのだけれど、予想以上に大きかった。
頑張ったら食べられないこともなかったけれど、子ども用に頼んだミートスパゲッティも味付けが少し濃くて2人とも残したので私はそちらを食べることを手伝い、お腹もいっぱいだったので思い切ってオムライスとスパゲッティを少しずつ残すことにした。
自分の頼んだ分はもちろん、子どもたちが残した分も外食時にはいつも食べ切っていたので、残すのは想像以上に勇気がいった。
だいぶ後ろめたくて残すことを決めてからも一口、二口食べた。
でも「これは練習だ」「こういう時に頑張って胃の中に収めるところが、苦手な人も受け入れてしまうところに繋がってるんだ」
と思って残した。
これは第一歩だ。
食べられる量にも物にも限界がある。
同じ考えの人がいることと同時に、受け入れ難い考えもあるという現実の自分のキャパを知る第一歩だ。
これは練習であり、実験だ。
実際に残すのはよいことでないけれど、「残してもいいんだよ」と自分に言い聞かせるだけでもいいかもしれない。
って、なにやってんだ私。
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今日は長女のピアノの日。
発表会の曲を録画する最後のチャンス!
前回のレッスンでも録画したのだがうまくいかず時間切れだったので、なにがなんでも今日成功させなくてはいけない。
と言っても長女はリラックス。
ただの伴奏の身の私の方が緊張してしまう。
1回目は手が温まっていなかったのか、歩調が合わず失敗。
2回目は長女のメロディ部分でミス。
3回目で見事!きれいに弾けて私の方がはしゃいで喜んでしまった!
いけないいけない。
油断するとすぐに娘のピアノ教室なのに私の方が楽しくなってしまう。
でも楽しいものは楽しい。
先生もノリノリだ。
次は先生と私の連弾の「くるみ割り人形」を録画することに!
前回では私のソロパートの「ファ」に♯がついてなかったので失敗。
練習もろくにできてないままの今日だったのですごく心配。
1回目。
全体的に硬く、右手と左手のバランスが弾きながらバラバラだと感じた。
2回目。
和音の抜けがたくさん。
先生との歩調も今ひとつ合わず。
3回目。
ソロパートはたくさん失敗していた気もするけど、なんとか勢いでねじ伏せられた!?
弾き終わった先生と私の感覚が「いいね!」と気持ちよく一致した。大成功◎
あーーー!
楽しかった!!
楽しかったよーーー!!!
先生との連弾、最高でした!
誰かと音楽を奏でるなんていつぶりの経験!めっちゃ気持ちよかった!!
叫びたかった。
先生と抱き合いたかった。
いかんいかん。
娘のピアノ教室だった。
私は母親だったわ。
その思いでなんとか自分を抑えたけれど、胸は熱く高揚し、ふわふわと気持ちよく、練習から成功した久しぶりの達成感にずっと満たされていた。
やっぱりピアノが好きだ。
誰かと一緒に演奏することはすごく楽しい。
2020.12.24
自分の頭がもっと賢かったら、とよく思う。
もっと賢かったらもっと感情や状況に適切な言葉を見つけられるし、人の言動の矛盾点にも瞬時に気づくことができるし、その上での後味の悪くない対応を取ることができるのだろうと。
逆を言えば、今の私は後から「あの時こうしていれば」「あの時ああ言っておけば」という後味の悪いことが日常であり、自分の判断の鈍さに絶望するのも日常だ。
それでも自分の言葉を諦めきれないところもある。
だからこうやってブログを書いたり歌を作っているのだと思う。
歌を歌いたい、そう思ったらどんどん歌ができる。
それくらい、消化できない思いや言葉が今の自分の中にはあるという反面、この状態は永遠に続くものではないということも俯瞰的に分かっている。
現実は歌にしなければ消化できないほど嫌なことも楽しいことも相変わらず同じようにあるけれど、こんな今でしか私は歌を作ることはできないのかもしれない。
この前、友人と話していたら、いつものように話していたのに言葉が出てこなくなって、「ああ、あの歌を聴いてもらったら伝えられるのに」と思った瞬間があった。
そんな風に自分の言葉を自分の歌に代弁してもらおうと思った経験は初めてで、少しおかしかった。
自分の頭がもっと賢かったら、歌を作らずに会話で全てを語れただろうか。
それとも、もっと素敵な歌がたくさんたくさんできただろうか。
教養は大切だ、と身に沁みて思う。
すごく賢くなくてもいいけど、馬鹿には絶対なりたくない。
以前、自分一人では抱えきれない問題を相談をした時、
「マリちゃんは毎日ハッピーじゃないってこと?」
とある人から言われて、びっくりしすぎて返事ができなかった時があった。
「ハッピーだけじゃないよ」というのが精一杯だったような。
もっと何か別の言葉でその場を取り繕おうしたのか、自分でも記憶がないほど衝撃的だった。
自分の心を大事に、笑顔で、ネガティブな感情はポジティブに変換して、理想の自分、理想の社会を目指す。それがハッピーなことなのかな、とそう言ってきた彼女を見ていると思う。
でも決定的に私と彼女とは価値観が違う。
けれど賢くない私は、それを大人の対応で的確に説明できる言葉がなかった。
どうしようもない感情になった私は大人げなく「もういいよ」と最後に言って、彼女は「そうなんだ」と空を見上げて言って走って行った。
今日、イ・ランのエッセイを読んでいたら、この時の出来事を思い出すようなくだりがあって私は深く共感した。
”楽しい人生のイメージといったら、毎日笑顔で自然と踊り出してしまうような、そんなものじゃないと思う。むしろ、しかめっ面に近いとでも言おうか。
(中略)
何かを考えて、それを書いて、また考えて、行き詰まったら友人と話をして、また考えを整理して書く。この文章のタイトルを考えて挿絵はどうしようかと悩む。そうやってひたむきに一ページを作り上げた後の気分は「楽しい」”
(引用:悲しくてかっこいい人 / イ・ラン)
かっこいいなあ。
サラリと言葉にしてくれてる。
ほんとにそう。
私も考えることはやめたくないし、考えて出た言葉を吐き出す作業は続けていきたい。それが私の人生の楽しみでもあると思っている。
やっぱり文章には自由がある。
私は毎日、ある意味ではハッピーではない。
でも、幸せを感じない日もない。
子どもたちは元気だし、歌を歌えるほどには時間もあるし、「元気にしてるかな?」とか「こんな曲ができたよ」とメールを送りたくなる友人がいる。
じゅうぶんだ。
私のハッピーの形は誰にも決められたくない。
2020.12.20
長女がスイミングを初めて半年くらい経った。
私と次女はスイミングのレッスンの間は1時間ずっと座って見学をしているのだけれど、同じ見学席でひときわ明るい親子がいて、いつも楽しげに絵本を読んだり人形で遊んだりしていて、お腹を空かせてグズる次女に焼き芋をお裾分けしてくれたり。
私はそのお母さんを好きだなあと感じていて、唯一笑いかけたり「こんにちは」や「さよなら」を言える人だった。
この前、夫が珍しく仕事が休みだったので、初めてスイミングに家族みんなで一緒に行ったら「石田さん?」と話しかけられた。
話しかけてきた人がそのお母さんだった。
お久しぶりです!
わあ!石田さんだあ!
一瞬、なにがあったか分からなくてポカンとした私やお互いの子供達に向かって彼女は
「お母さんの大学の時の先輩」
と夫のことを紹介して笑った。
こんなことってあるんだよなあ。
ほんと、こういう世界の狭さ、近さ、繋がりを感じる瞬間がすごく好きだ。
興奮する彼女を見て、私も嬉しくなって
「私が唯一お話してるお母さんなんだよ!」
と、よく分からない紹介をご本人の前でしてしまった。
彼女も作家として作品を作っているようで、今展示中の展覧会のDMをくれてもう一度びっくりした。
それは大阪で石版リトグラフの仕事をする義弟が関わる企画の展覧会で、私も毎年足を運んでる展示だった。
週末、嬉しい感動を噛み締めて子どもたちを連れて展覧会に行ってきた。
人柄から作品の順番で知るのはとても説得力が増す。
彼女の作品はたくさんある作品の中でもひときわカラフルで、豪快なタッチだった。
彼女のことをもっと好きになった。
自分の日常も捨てたもんじゃないな、と思う。
スイミングに行く時間にも少し楽しみが増えたのだから。
2020.12.14
昨夜に観たドラマ「腐女子、うっかりゲイに告る」がすごく良くて、泣いてしまって感動の余韻に寝起き直前から浸る朝。
ドラマ、本当によかったなあ。脚本も役者さんも素晴らしかった。
もう一度第1話から観ようと思う。
好きなドラマや映画は複数回観たくなる性分だ。
日曜にコタツを出したら予想通りみんなコタツに虜で、今朝も出発20分前までコタツから抜け出すことができなかった。
帰宅後も次女とコタツに直行。
ダラダラと2人でコタツ布団にくるまって過ごす。
小学校から帰宅した長女がその光景を見て「こうなると思ってた」と冷静に言い放った。
長女はテキパキと手洗いうがいをして宿題をテーブルで済ませてからコタツにようやく入ってきた。
2020.12.13
なんか新しい漫画が読みたいなと思って、用事で家を出たついでにブックオフに寄ろうかと言ったら
「ぶっこわす?」と次女が聞き返して
「ぶっころす?」と長女がさらに聞き返し、車内は
「ぶっこわす〜ぶっころす〜」
の大合唱になった。
窓を開けた車内からそんな声が聴こえてきたら、親の顔を見てみたい光景だ。
帰り道、柴田聡子の「ぼくめつ」をカーステレオで聴いていたら、メロディの裏で小声で
〝オリンピックなんてなくなればいいのに″
という声が聴こえることに気がついた娘たち。
「オリンピックってなに?」
と聞くので、いろんなことの世界一を決める大会だよと、大まかに説明をしたら
「わたし、世界一になんてなりたくない。普通の人でいい。」
と長女が言った。
「みんな違うから一番なんて決められないのにねえ」
と次女が笑って言った。
そうだよね、と言いながら私はこの子達の母親であることが少し誇らしい気分になった。
大丈夫。
この子たちはきっと大丈夫。
2020.11.30
平日はバイト、給食係、小学校の宿題や毎日の提出物のチェック、習い事×3つの送迎、早寝早起きのリズム、その場凌ぎの家事であっという間に過ぎてしまう。
今の私のゴールデンタイムは金曜夜と夫のいない土日のどちらか。
金曜夜は心置きなく夜更かしをして、母娘だけの翌朝は目覚ましをかけずにゆっくり心ゆくまで眠る。
私のこの平日と休日の緩急スタイルはここ3、4年くらいで定着している気がする。「定着」と言えば安定しているかのように聞こえるが、このスタイルは平日の出来事が自分の容量をオーバーしてきている「危険信号」なのかもしれない。
今よりもはるかに拘束時間が長く忙しかった社会人時代は、こんな私でも休日は早起きをして友人との約束に出掛けたり、観たい映画や買い物のために電車に乗ってちょこちょこと歩き回っていた。
行きたい場所は無限にあったし、ちょっとした隙間時間をも有意義に過ごせる喫茶店も友人もたくさん知っていた。
ワクワクするものに飛びつくアグレッシブさがなくなったのは体力や年齢のせいだけではないはずだ。私のアンテナはまるで全ての情報をキャッチすることを拒んでいるみたいに外の世界へ向いていないみたい。
今日のバイトは珍しく11時〜で朝に余裕があった。
幼稚園の送り後の9時15分からの一時間とちょっと。この貴重な余裕時間を使う手立てを必死に考えた。
①スタッフと話したい、が話す内容もまだまとまっていない気もする。スタッフも忙しそうだ。
②今のうちに薬局で済ませられる買い物をしよう。薬局の開店は10時だ。
③家に帰ろう。家に帰ったら絶対に猫を抱いて寝てしまいそうだ。
④近くの喫茶店に入ろう。今朝に限ってコーヒーを2杯も飲んできてしまった。
やめておこう。
全部やめておこう。
給食室に行こう。
子どもたちやスタッフが散歩に出かけた静かな園の隣、ひとりで給食室でバイトまでの時間を過ごした。
代々のお母さんたちが作ってきた献立ファイルを眺めながら、次の献立メニューと買い出しリストを考える。
メニューが決まるたびに、ぐちゃぐちゃだった頭の中が緩んでいく。
ああ、今の私の世界はここなんだ。
とぼんやり思う。
明日の私がいる世界はまた違う世界かもしれない。
今の私にとって、世界は全て地続きであり多様にある。
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ピアノの練習が楽しい。
くるみ割り人形も弾けるようになってきた。
ギターも楽しい。
ギターを弾きながら大きな声で歌うとすごく気持ちがいい。力が湧く。
楽しいことをもっとしたい。
2020.11.20
幼稚園での給食係の仕事も、折り返しを迎えてようやく楽しくなってきた。
ジャガイモを朝から5人体制で40個皮剥きし、コロッケを100個揚げる経験なんて初めてだったし、気心の知れた母たちでワイワイ作るのは”おばちゃん食堂”みたいで楽しい。
最近は子供達が夏休み明けに種まきした野菜が一斉に芽吹いているので、毎回摘み菜がたくさん給食室に届く。
大根、カブ、ラディッシュ、ほうれん草、サラダ菜、大高菜、正月大根。
石だらけのワイルドな畑で育ったたくましい味の彼らの土を洗い流し、もう一品を考えるのも難題であり醍醐味なのかもしれない。
あと、ありがたいことに差し入れで大量の柿やリンゴをいただいたので料理にもオヤツにも使わせてもらっている。
この前は小松菜のお浸しに柿を入れたら美味しかった。新発見!
子どもたちだけではなく、係ではない母たちも給食に興味を持ってくれて、こうして差し入れをしてくれたりみんなで朝から畑仕事を手伝ってくれるようになってとても感謝している。
あと、給食を食べ終わった子供達に「おいしかったよ」「ぜんぶたべたよー」などと言われると疲れも吹っ飛ぶし、作ったものがほとんど売り切れ!とか残飯が少なかったりすると係のパートナー同士で「やったーー!」と声を上げて喜んでしまう。
不慣れだった母たちの動きも日に日に良くなり、時には笑ってしまうほどコンビネーションが上達している。私の千切りが全く千切りではないことにも「太い〜」とお叱りも受けながら、ありがたく精進しております。
週に2回の給食作り。体力的に大変ではあるけれど、最後まで楽しくやり遂げたい。
学ぶこと、得られるものは計り知れない。
次回のメニューは車麩カツ、野菜たっぷりすいとん汁、サツマイモの豆乳マヨサラダ、キャベツとリンゴの中華サラダの予定。
母としても人生としても大先輩である友人がパートナーなので特に頼もしく楽しみな日。
自然体な彼女の作る料理は、薄味でもどれも美味しく、それほど急いでいないのに手際よく次々と仕上がっていく魔法のようなのだ。
この魔法を間近で見られるだけで何よりのご褒美だと思う。
人は好きだけれど、人付き合いがあまり得意ではなかった私。
いつの間にかここで「人と関わる」ことができるようになっていると気づく。
誰かと比べて”上手に”関わることはできなくても、自分の感性のまま、そんな自分に寄り添ってくれる人たちと心を通わせながら今があるんだとしみじみと思う。
次から次へといろんなことが起きる毎日だけれど、この感動には嘘はないから。
もっと胸を張っていたい。
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今日は長女のピアノの日だった。
先生が「今年はリモート発表会にましょう」と提案し、youtubeで限定公開してそれぞれの演奏を録画してみんなでシェアする発表会にすることになった。
長女は生まれて初めての発表会に「聖しこの夜」を私と連弾することになった。
そしてなんと、私は先生と連弾で「くるみ割り人形」を弾くことになった。
(なった、というか先生が勝手にプログラムを組んでいた!)
ナンテコッタ!やはりこの先生、面白い。
ということで、私の練習にもさらに熱が入る今日この頃。
予定のない3連休は、一日中ピアノを弾いて過ごそう。